自分のエネルギー =主導権を持った自分が責任を取れる行動 =共同体に依存しない個人の自由

コラム

 

youtbeで、ひろゆき氏の動画切り抜きを見る機会が増えたんだけど、

彼を見て思ったのは、

「意外と常識的な感性を隣に置いている人だな」というものである。

それはおそらく彼が、結婚しているのが一番の理由な気がするが。

 

 




ひろゆき氏の事は

「人を理屈で殴る事に全く抵抗がない人」と感じていたが、

DaiGo氏の失言騒動後は、比較して見てしまう為だろうか、

伏せるべき時は伏せ、守るべきところは守り、

親身になる部分は親身になっている事に気が付いた。

パソコンを読んでお酒を飲みながら質問に回答している動画を見ての感想なんだけど。

 

論法を変えているわけでなく、

語る攻め口を上手に操っている気がする。

人の命の危機に対しては、客観的なポジションを維持しながらも、

最適解を心情含まず説明する様は見習うべき部分かとも思う。

 

ボケっと、見てたらすべて「ひろゆき節」だなあと感じるのだが、

悪意なく殴る論法ではない部分も多くあるのだなあと、発見して驚いている。

 

なので、ひろゆき氏がメディア出演する場合の映像は、

過激な論破パフォーマーに徹しているのだと最近気づいた。

 

彼の論破はさながら近距離接近格闘技に比喩されるが

本当にその通りだ。

あれは、弁論部などの部活動で恒常的に鍛えるか

もしくは日常的に人をおちょくる事を非としない性格でなければならない。

ひろゆき氏は、どうも後者のようだ。

 

あれは、正直うらやましい。

自分と他人を潔く切り離して考えらている。

共同体意識から脱した、日本民族にそぐわない能力であると思う。

それはひろゆき氏を否定しているのではなくて、

共同体意識から脱した外国人的な感性を深く浸透させている事を認識しているのだ。

まあ、海外経験があれば、

NOはNO、と言える能力が身につくのだろうが、

日本という国だけで育つと

『なし崩し的な鰯化』とでもいうのだろうか。




 

望む望まざるにかかわらず、共同体意識にて感性が平均化されるようだ。

特に、その恩恵の中で責任を取らずに生きていたいと感じている者は。

 

人生の主導権=行動の責任である。

つまり、仕事でも恋愛でも、責任を取りたくない者は

主導権が握れずに自壊しやすく思う。

 

責任を全うするには、同時にエネルギーも必要であり

そのエネルギーありきで、自分の自由が決定する。

 

自分のエネルギー

=主導権を持った自分が責任を取れる行動

=共同体に依存しない個人の自由

 

そう思う。

そう感じる。

 

 

 

 

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