『手を挙げる』という些細な行動が、これからの人生に対するスタンスを形作るんじゃなかろうか?という話。

コラム

『この問題が分かる人は手を挙げて下さい』

 

子供だった頃、学校の授業中にそう言われた事がある人がほとんどではないだろうか。

低学年の時期は、先生方は問題の理解自体よりも手を挙げる事を評価の対象にしていたような気がする。

まわりのみんな猿のように、これでもかと率先して手を挙げていた。

しかし、私はその挙手と言う行為を疑うような事をふと考えてしまった。

「本当に理解していれば、教室のみんなの前で自己顕示欲を満たすような回答をする事は余分なのではないのだろうか」

「それは知識の自慢や見せびらかしをするような感じがして、恥ずかしい事なのではないか」 

 

自意識過剰と言われればそれまでなのだが、当時の私は、そこになんの意味があるのを純粋にわかっていなかったのである。

もちろん、最初からそうだった訳ではない。

おそらくそこに「自慢心」を感じ始めたのは、小学1年生の国語の授業である。

 

●挙手嫌いが酷くなった要因

 

「『あ』『い』『う』『え』『お』、はひらがなですが、そのひらがなの基になった漢字は何でしょう?」

という問いかけがあった。

私は学習雑誌(おそらく、学研の学習だったと思う)を読んでいたので、それを知っていたのだ。

まわりのみんながあらかた推測で発言している中、私だけは知っているので、まどろっこしくてたまらない。

思わず、手を挙げて発言した。

「『あ』は安心の『安』だと思います!」

 

それは正解であり、周りからも「おぉ…!」みたいな反応を貰って、なんだかまんざらでもない気分であった。

 

「それでは、こんどは『い』の元となった漢字はなんでしょう?」

先生は問いかける。

当然、周りはわからない。

私だけが答えを知っている。

「みんな知らなないのか?オレが答えなきゃ進まないんじゃないの?」なんて少し驕った気分になった。

「みなさん予想で答えましょう!」と先生が再度、呼びかけている。

数名の生徒が答えているが、見当違いも甚だしいものであった。

「しょうがないなぁ、それならまたオレが答えてやらなきゃ!」なんて気分になり、私はちょっと控えめに手を挙げた。

「はい、〇〇さん(私の名字)」

先生に名前を言われたので、いかに、にもしょうがないなあ という雰囲気で立ち上がりいざ答えようとした時、

「以上の『以』じゃないですか?」

と真後ろの席から回答の声が上がった。

私は、「あれ?」と途中まで上がりかかっていた腰をあわてて着席させた。

考えてみれば、入学したばかりの小学校1年生の教室、席順が、あいうえお順なのである。

同じ名字の生徒が指名されたのを、私が勘違いして立ち上がろうとしたのであった。

その時、言いようの無い恥じらいが生まれた。

『人に自慢するような心で答えようと思ったからこんなに恥ずかしいのではないだろうか?』

感心の眼差しを受ける事を束の間で覚え、その自分の安直さに嫌悪してしまった。

それが、私が挙手嫌いになった根本的な始まりだったように思える。

それ以降は、たとえビンゴで豪華賞品が当たろうが、自分で名乗りを挙げる事はなかった。

高学年になると、私は手を挙げるどころか、授業で当てられると地蔵化し、「答える」という事自体がたびたびできなくなっていた。

私が当てられる度に授業が答え待ちで授業が滞るので、同じクラスの人はさぞや迷惑だったであろう申し訳ない。

今では大人になってしまい、その傾向も概ね緩和したが、根っこの性格はまだ幾分か所有している。

 

● 現在での『手を挙げる事』への解釈

 

そんな小学校の思い出を30歳を過ぎた今、ふと『手を挙げる』というワードから思い出した。

なぜ当時あれほど嫌がっていたのか。

 

この『手を挙げる事』を考えてみると、当時とまた違った角度から解釈を持つようになった。

結論から言うと、それは『問題に対する理解の確認』ではなく、

『外の世界に飛び込む最初の一歩』という事だ。

例えば、

「こんど〇〇のライブがあるけど行きたい?」

とか

「次の休みにスキューバーダイビングをするけど一緒にやってみないか?」

なんて云うふうに、人生を生きる中で「問題」が出たとする。

興味があれば行くだろうし、一緒にやりにいくだろう。

しかし、その答えをじっくり考えて、やりたい事や行きたい場所への欲求を本当に自分が求めているのかを内省し、入念に確認する。

そうしているうちに、そのチャンスは失われてしまう可能性は高くなる。

チャンスにも時間制限があるからだ。

欲求は玉ねぎの皮と同じで、剥き続けると実態がなくなってしまうものだ。

『手を挙げる』

あれは、活動に対しての意欲表明であり条件反射なのだ。

未知の領域へ踏み込む事を不安を理由にダメにしない為に教育されているパブロフの犬と言っても良い。

もちろん、参加しない事が功を奏す事も多かろうが、参加するコストへの腰の重さというものは、

歳を取る度にどんどん増してしまう。

そんなものは、後天的に修正すればよい。

意欲はとにかくムーブメントであり波であるから、解剖学的にじっくり観察して考えてしていくうちに薄れて行ってしまう。

生きている人間なのだから、条件反射で手を挙げて、「行きたい!」「やりたい!」と勢いやテンションだけで答えるのだ。

そうやって、活動へ参加する事でしか、人生は動いて行かない。

 

小学生時の『手を挙げる』という行動は、

授業という活動への『参加の意思表明』だ。

そして、それは歳に関わらず、人の成長に役に立つのだ。

 

コメント